最高裁判所第二小法廷 昭和58年(オ)171号 判決
上告人
財団法人
書道博物館
右代表者理事
中村丙午郎
右訴訟代理人
中村稔
熊倉禎男
被上告人
有限会社
書芸文化新社
右代表者
飯島稲太郎
被上告人
飯島稲太郎
右両名訴訟代理人
田宮甫
堤義成
齋喜要
坂口公一
鈴木純
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人中村稔、同熊倉禎男の上告理由について
美術の著作物の原作品は、それ自体有体物であるが、同時に無体物である美術の著作物を体現しているものというべきところ、所有権は有体物をその客体とする権利であるから、美術の著作物の原作品に対する所有権は、その有体物の面に対する排他的支配権能であるにとどまり、無体物である美術の著作物自体を直接排他的に支配する権能ではないと解するのが相当である。そして、美術の著作物に対する排他的支配権能は、著作物の保護期間内に限り、ひとり著作権者がこれを専有するのである。そこで著作物の保護期間内においては、所有権と著作権とは同時的に併存するのであるが、所論のように、保護期間においては所有権の権能の一部が離脱して著作権の権能と化し、保護期間の満了により著作権が消滅すると同時にその権能が所有権の権能に復帰すると解するがごときは、両権利が前記のように客体を、異にすることを理解しないことによるものといわざるをえない。著作権の消滅後は、所論のように著作権者の有していた著作物の複製権等が所有権者に復帰するのではなく、著作物は公有(パブリック・ドメイン)に帰し、何人も、著作者の人格的利益を害しない限り、自由にこれを利用しうることになるのである。したがつて、著作権が消滅しても、そのことにより、所有権が、無体物としての面に対する排他的支配権能までも手中に収め、所有権の一内容として著作権と同様の保護を与えられることになると解することはできないのであつて、著作権の消滅後に第三者が有体物としての美術の著作物の原作品に対する排他的支配権能をおかすことなく原作品の著作物の面を利用したとしても、右行為は、原作品の所有権を侵害するものではないというべきである。
小説のような言語の著作物の原作品である原稿が、通常、美術の著作物の原作品のようにそれ自体としては財産的価値を有しないのは、美術の著作物の場合は、原作品によらなければ真にその美術的価値を亨受することができないことから、原作品自体が取引の対象とされるのに対し、言語の著作物の場合は、原作品によらなくとも複製物によつてその表現内容を感得することができるところから、いきおい出版物としての複製物が取引の対象とされるからにすぎず、言語の著作物の原作品についても、有体物としての面と無体物としての面とがあることは、美術の著作物の原作品におけると同様であり、両者の間に本質的な相違はないと解されるのであつて、所論のように、美術の著作物の原作品についてのみ、著作権の消滅により原作品に対する所有権が無体物の面に対する排他的支配権能までも有することになると解すべき理由はない。そして、美術の著作物の原作品の所有権が譲渡された場合における著作権者と所有権者との関係について規定する著作権法四五条一項、四七条の定めは、著作権者が有する権利(展示権、複製権)と所有権との調整を図るために設けられたものにすぎず、所有権が無体物の面に対する排他的支配権能までも含むものであることを認める趣旨のものではないと解される。また、保護期間の満了後においても第三者が美術の著作物の複製物を出版すると、所論のように、美術の著作物の原作品の所有権者に対価を支払つて原作品の利用の許諾を求める者が減少し、原作品の所有権者は、それだけ原作品によつて収益をあげる機会を奪われ、経済上の不利益を受けるであろうことは否定し難いところであるが、第三者の複製物の出版が有体物としての原作品に対する排他的支配をおかすことなく行われたものであるときには、右複製物の出版は単に公有に帰した著作物の面を利用するにすぎないのであるから、たとえ原作品の所有権者に右のような経済上の不利益が生じたとしても、それは、第三者が著作物を自由に利用することができることによる事実上の結果であるにすぎず、所論のように第三者が所有権者の原作品に対する使用収益権能を違法におかしたことによるものではない。原判決が、被上告人の複製物の出版によつては上告人の原作品に対する使用収益権能が物理的に妨げられるものではなく、また、他人の権利の経済的価値の下落をもたらすような結果を生ぜしめる行為であるというだけではこれを違法とはいえない旨判示するのも、その意味するところは、ひつきよう、右に説示したところと同趣旨に帰するものと解されるのである。更に、博物館や美術館において、著作権が現存しない著作物の原作品の観覧や写真撮影について料金を徴収し、あるいは写真撮影をするのに許可を要するとしているのは、原作品の有体物の面に対する所有権に縁由するものと解すべきであるから、右の料金の徴収等の事実は、所有権が無体物の面を支配する権能までも含むものとする根拠とはなりえない。料金の徴収等の事実は、一見所有権者が無体物である著作物の複製等を許諾する権利を専有することを示しているかのようにみえるとしても、それは、所有権者が無体物である著作物を体現している有体物としての原作品を所有していることから生じる反射的効果にすぎないのである。若しも、所論のように原作品の所有権者はその所有権に基づいて著作物の複製等を許諾する権利をも慣行として有するとするならば、著作権法が著作物の保護期間を定めた意義は全く没却されてしまうことになるのであつて、仮に右のような慣行があるとしても、これを所論のように法的規範として是認することはできないものというべきである。
これを本件についてみるに、原審の適法に確定した事実関係は、(1) 上告人は、中国唐代の著名な書家である顔真卿真蹟の「顔真卿自書建中告身帖」(以下「自書告身帖」という。)を所有している、(2) 上告人らは、昭和五五年八月三〇日、和漢墨宝選集第二四巻「顔真卿楷書と王臨書」(以下「本件出版物」という。)を出版した、(3) 本件出版物の第一部は自書告身帖の複製物である、というのである。右事実によれば、自書告身帖は、書という美術の著作物の原作品として、有体物としての面と無体物である美術の著作物としての面とを有するものというべきところ、自書告身帖について著作権が現存しないことは明らかであつて、上告人も、自書告身帖に対する所有権を主張するにとどまり、他方、被上告人らは、自書告身帖の前所有者の許諾を受けてこれを写真撮影した者の承継人から写真乾板を譲り受け、これを用いて本件出版物を製作したものであることは、上告人においてこれを認めるところである。そこで、前記説示に照らして考察すれば、被上告人らの右行為は、被上告人らが適法に所有権を取得した写真乾板を用いるにすぎず、上告人の所有する自書告身帖を使用するなどして上告人の自書告身帖に対する排他的支配をおかすものではなく、上告人の自書告身帖に対して有する所有権をなんら侵害するものではないといわざるをえない。右と同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(宮﨑梧一 木下忠良 鹽野宜慶 大橋進 牧圭次)
上告代理人中村稔、同熊倉禎男の上告理由
原判決は所有権の保護の内容、効力の解釈に関し、判決に影響を及ぼす明らかな法令の違背があるので、取消されるべきものであり、この法令違背を詳細に説明すれば以下のとおりである。
一、(一) 原判決は上告人の請求を棄却すべき理由として第一審における主張立証に関しては第一審判決理由を引用している。そして、第一審が上告人の請求を棄却した理由は、要するに第一審判決の理由中の次の点にあるものと考えられる。
「一般に、物の所有者は、その所有権の範囲を逸脱し、又は他人の権利・利益を侵害する結果となるような場合を除き、その所有物をいかなる手段・方法によつても使用収益することができ、第三者は所有者から使用収益を承認されている場合を除いては、直接にせよ、間接にせよ、他人の所有物を利用することによつて所有者の使用収益を阻害してはならない関係にあるとはいえ、右は有体物についての使用収益にとどまり、所有者が、有体物を離れて無体物である美術の著作物(美術的価値)自他を排他的に支配し、使用収益することができる訳ではない。右美術の著作物の排他的な支配権は、法律の許容する範囲内で、著作権者がこれを専有するものである。」
「翻つて本件を見るに、被告らによる本件刊行物の出版をもつて原告がその所有する『自書告身帖』について有する使用収益権の侵害と解することができないことは以上述べたところから明らかであつて、原告が主張するように、有体物としての物が体現している美術的価値自体を、その物の所有権の使用収益権の効力として第三者による無断の複製物の製作・頒布行為を差し止めるなどにより、排他的に支配しうる旨解することはできない。」
(二) 右の第一審判決により説示され、原審が引用した解釈は、結局無体物の排他的支配権は著作権者が、有体物の排他的な支配権は所有者が、それぞれ所有するという二元論的立場に立つものということができる。
しかしながら、上告人は無体物である著作物の排他的な支配権を上告人が所有権にもとづいて有する、などと主張してきたわけではない。第三者による所有物の影像や写真の利用がその所有物の使用収益権を害するばあいは、所有者は、その所有権にもとづきこれを差止めることができると主張してきたにとどまる。原判決は所有権の使用収益権を害するような所有物の影像や写真の利用と、無体物としての著作物の複製とを混同する誤りを冒しているものである。
(三) そもそも、所有物の影像や写真の利用に対する所有者の支配権は、民法の所有権の保護の目的、内容に照らして判断すべきものであり、無体物としての著作物の複製に対する著作権者の支配権は著作権法の目的、内容に照らして判断すべきものであり、これらはたがいに他を排斥する二元的関係に立つものではなく、それぞれの法の保護の目的、内容に照らし、それぞれの法に内在する論理に照らして、判断基準や効力が定まるものである。
(四) それ故、所有権の使用収益権を害するような所有物の影像や写真の利用と、無体物としての著作物に対する著作権を侵害する複製とは、実質的に重複する部分はあつても決して同じではない。たとえば、絵画や写真の著作物を考えたばあい、同様の構図、同様の手法で第三者が似たような絵画や写真を創作したばあい、元の絵画や写真の創作性を利用しているかぎり、著作権法上の著作物の複製権の侵害にあたるが、その絵画や写真の所有権にもとづく使用収益権の侵害にはあたらないであろう。また、版画のように多数の同一の原作品が存在する著作物のばあい、これを印刷等により複製することも、著作権法上は著作権者の複製権の侵害になつても、版示的有無の所有者の使用収益権を害することにはならない。文芸の著作物の原稿を所有している者が、その著作物を活版印刷により出版する者に対して所有物である原稿の使用収益権を害すると主張できないことはいうまでもない。これは、著作権で保護された複製権の侵害行為にあたるかどうかの判断基準は無体物である著作物における著作者の独創性が利用されているかどうかにあるのに反し、所有権にもとづく使用収益権が害されるかどうかは、真にその所有物の使用収益権が害されたかどうかを、具体的事案の性質、事情に応じ判断しなければならないからであり、そういう意味で、民法による所有権の保護と著作権法による著作物の保護とは、保護の目的、内容、保護されるべき権利主体を異にし、そのためにその侵害の成否の判断基準もまた異ならざるをえないからである。
本件において上告人がその所有権を主張している「自書告身帖」は、著作権法にいう美術の著作物の範疇に属するものの原作品である。原判決はそうした事実関係に目を奪われて、前記のような二元論的立場を採つたものと思われるが、上告人の見解は、所有物が美術の著作物の原作品でなくしても、所有物一般についてあてはまるものである。(勿論あらゆる所有物について第三者がその影像や写真を利用すれば、真ちに所有権の侵害となるなどと主張しているわけではない。事案の性質、事情により個別に所有物の使用収益権が真に害されているかどうかを判断しなければならない、と上告人は考えている)。ところが、原判決のような二元論的見解は、もし上告人がその所有権を主張する物品が、たとえば東京高裁昭和五二年(ネ)第七九号昭和五三年九月二八日判決で争われたような広告用気球の如きものであつたとすれば成り立たないこととなる。こうした矛盾を生じるのも、原判決が民法の所有権による保護と著作権法による著作権の保護とを、たがいに他を排斥する二元的関係に立つものと把握している誤りを冒していることにもとづくものである。
(五) 結局、前記東京高裁判決で説示されているとおり、「人の知的所産を保護するために著作者や意匠の創作者に対して与えられる著作権法や意匠法による法的保護と著作物の所有者の意匠に係る物品の所有者に対して与えられる民法上の保護とは、保護の目的、内容、保護されるべき権利主体を異にし、前者の法的処理をもつ後者をも律すべき関係にはない」のに、原判決は著作権法による法的処理をもつて所有権をも律した誤りを冒したものといわねばならない。
二、(一) 次に原判決は、美術の著作物は文芸の著作物と異なり原作品そのものに財産的、美術的価値があり、これを複製することは単に二次的価値しかないことを強調して、著作権の存続期間が満了すれば、美術の原作品の所有者は、原作品の影像や写真の排他的支配権を有することとなる、との上告人の主張を却け、その理由として、第一に、美術の著作物と文芸の著作物との社会的取扱いの相違は、文芸の著作物と異なり美術の著作物についてはその精確な複製が不可能に近いことから生ずる事実上のものにすぎないのであつて、美術の著作物も、文芸の著作物と同じく本来無体のものであり、両者の間に本質的な相違はないと説示している。
しかし、美術の著作物も文芸の著作物も同じく本来無体のものであることは原判決の説示をまつまでもなく当然のことである。問題は文芸の著作物も美術の著作物も、無体の著作物は通常有体物としての原作品(原画、原稿等)の上に成立するものであるが、この原作品のもつ意味が文芸等の著作物のばあいと美術の著作物のばあいとでは本質的に異なるのであり、この点を原判決は完全に看過する誤りを冒しているのである。
(二) すなわち、文芸の著作物は原作品である原稿を印刷に付し複製することが、本質的な著作物の利用形態である。出版物としての形態が文庫版であれ、単行本であれ、あるいは組版の形状をまつたく異にしていても、その著作物の複製であることに何ら変りはない。原稿はたんに著作物を外部的に表現し固定した媒体であるにとどまる。ところが美術の著作物のばあい、原作品そのものに美術的、財産的価値があり、いかに複製技術が発達したところで、又、いかに精緻な複製物が作成されたとしても、複製物は原作品におきかわることはできない。これに反し文芸の著作物のばあいは、複製して利用することに著作権の本質があり、原作品(原稿)はたんに無体物としての思想、感情の創作的表現である著作物を外部的に表現し、固定したものであるにすぎないから、それ自体は元来財産的価値を有しない。例外的には著名作家の原稿等が古書店等で取引の対象とされることはあるが、これも原稿に墨蹟などと類似の美術の著作物と同様の価値を認められて取引されているものである。それ故、文芸の著作物の原作品は口述して他人に筆記させても、ワード・プロセッサーで作成しても、著作者が自ら筆記したのと何ら変りはないのに反し、美術の著作物のばあいは、原作品が決定的な意味をもつているのである。
(三) したがつて、美術の著作物の原作品の所有者は他の物品の所有者と同様、所有権の範囲を逸脱し、もしくは他人の権利、利益を侵害する結果となるようなばあいを除き、所有物である原作品を利用して使用収益をはかることができる。しかし、これが美術の著作物の原作品であることから、著作権の存続期間中は、その利用について著作権法上の制約に服する。すなわち、同法二一条により複製権は著作権者が専有すると定められているので、著作権の存続期間中は、同法四七条にあたるばあいを除き、その原作品の「複製」を行つたり、「複製」の許諾を他に与えたりすることはできない。しかし、著作権の存続期間が満了すれば、美術の著作物の原作品の所有者は、もはやこうした制約をうけることなく、自由にその原作品を利用して使用収益でき、そうした利用行為の中にはその原作品の影像や写真の製作、販売やその許諾も含まれる。
上述したとおり、美術の著作物のばあい、その原作品はそれ自体美術的、財産的価値を有するものであり、文芸の著作物の原稿のようにたんに著作物を外部的に表現し固定した媒体にすぎないものとは本質的にちがつている。それ故、この美術的、芸術的価値を有する原作品を支配する所有者は、本来、著作権法の制限がなければ、あらゆる形式でその使用収益をはかることができるのに、著作権法の制限があるので、著作権の存続期間中は、法の定めた一定の制限に服しているにすぎないし、著作権の存続期間の満了とは、たんにそうした制限がなくなつたことを意味するにすぎないのである。美術の著作物の原作品の写真や影像が通常無体物である美術の著作物の複製にあたるからといつて、美術の著作物の原作品の所有者が元来有している使用収益権が、その著作権の満了を理由として害されるとするならば、事の本末を顛倒するものといわざるをえない。
三、(一) 原判決は著作権法の改定に照らしてみると「美術の著作物の複製並びに原作品による公の展示に関しては、その著作者が排他的権利を独占的に有する旨を規定していること(同法二一条、二五条)、一方、未公表の美術の著作物の原作品が譲渡された場合は、その著作物を原作品による展示の方法で公衆に展示することについて著作者は同意したものと推定され(同法一八条二項二号)、また、美術の著作物の原作品の所有者は、右著作物をその原作品により公に展示することができると定め(同法四五条一項)、そのほか、美術の著作物の原作品の所有者はこれを公に展示するに際し、観覧者のために著作物の解説または紹介を目的とする小冊子に著作物を掲載することができると定めている(同法四七条)」と述べた上で、「右各規定によれば、美術の著作者は、著作権の存続期間中無体物である美術の著作物につきその複製権及び展示権を専有するわけであるが、同法一八条二項二号の場合には著作者の同意が推定される結果、同法四五条一項、四七条の場合には著作者の専有する右複製権及び展示権が制限される結果、原作品の所有者により美術の著作物の公の展示もしくは複製が著作権法に抵触せずに許されるとするにとどまるのであつて、著作者ではない原作品の所有者に無体物である美術の著作物の複製権及び展示権を認めたものではないと解せられる」といい、また、「美術の著作者が専有する無体物たる美術の著作物の複製権及び展示権は、著作権の存続期間満了後においては、いわゆるパブリック・ドメインに帰するところ、この場合、美術の著作物の原作品の所有者が、有体物についてこれを直接かつ排他的に支配する権利である所有権の内容として、無体物たる美術の著作物につき排他的な利用・支配権能を取得して原作品の影像や写真に対し排他的支配権を取得するに至ると解する余地は全くない」と説示している。
(二) しかし、著作権法の論規定の下で、著作者ではない原作品の所有者に無体物である美術の著作物の複製権及び展示権を認めていないこと、あるいは著作権の存続期間満了後に美術の著作物の原作品の所有者が無体物たる美術の著作物につき排他的な利用・支配権能を著作権法にもとづいて取得するものではないことは当然のことである。原判決は、上告人が主張している美術の著作物の原作品の影像や写真に対する支配権を美術の著作物の複製権・展示権ないし排他的な利用・支配権能と同義のものとして把握しているようにみえるが、両者は全く別異のものである。ただし、両者の支配権の内容が実質的に重複する部分があることは否定できないが、一方は著作権法にもとづき、他方は民法の所有権の規定にもとづき、与えられるもので、その内容はそれぞれの法律の保護の目的、内容に照らして定められるべきものであること、前述のとおりである。
(三) 要するに、本件で検討されるべきことは、一個の物品について二以上の権利が存在するばあい、そのうちの一方の権利が消滅すれば他方の権利も消滅するか、どうかにあり、権利の存否はそれぞれの権利の性質、内容にもとづいて定められ、一方の権利の消滅は他方の権利の消長に影響ないことはいうまでもない。たとえば美術工芸品について著作権と意匠権とが併存するばあい、意匠権の存続期間が満了し、意匠がパプリック・ドメインに帰したからといつて著作権が消滅すべきいわれはない。特許権で保護された機械の所有権を正当に取得したとしても、特許権者の許諾がなければ業としてその機械を用いることは特許法上特許権の侵害になるが、特許権の存続期間が満了し、特許発明がパブリック・ドメインに帰したからといつて、機械に対する所有権が消滅するはずもない。
(四) それ故、無体財産権の存続期間が満了し、その保護の対象がパブリック・ドメインに帰したということは、直ちにその対象を何人も自由に利用できるようになつたということを意味するわけではない。たんに、その無体財産権の権利者が有していた無体財産権法上の専有権が消滅したというにとどまり、他に利用を妨げる権利が存在すれば当然その権利が制約をうけるのである。本件についていえば、くりかえしいうように、美術の著作物の原作品に対する所有権の効力は、美術の著作物の著作権がその存続期間満了により消滅したからといつて、著作権法上の制約を消滅するにとどまり、それ以上何ら影響をうけるものではない。
四、(一) 原判決はまた、上告人は被上告人の本件印刷物の印刷・発行により上告人の「自書告身帳」に対する所有権にもとづく使用収益権が害されるとしているが、使用収益とは自らこれを観賞あるいは複製しあるいは他人に対しこれらの行為をなすことが許諾してその対価を得ることなどであるから、上告人がこれらの使用収益をなす権利が、被上告人の前記行為によつて物理的に妨げられると解すべき余地はないと説示している。
(二) しかし、使用収益をなす権利が物理的に妨げられなければ使用収益が妨げられないわけではない。直接であれ間接であれ所有物を使用し収益する権能・利益が妨げられれば使用収益権が妨げられたと解して一向差支えない。本件のばあい、上告人が被上告人の行為により「自書告身帳」を利用しての収益の機会が奪われ経済上の不利益を受けるであろうことは否定できないとは原審決の認定したとおりである。
この経済上の不利益、収益機会の喪失を、原判決は、交通機関の整備による近隣地価の上昇や新製品の開発による旧製品の値下り等と同様の移転可能な法律的権利の経済的価値の変動とし、「他人の権利の経済的価値の下落をもたらすような行為も自由競争の範囲内では当然に許されるから、そのような結果を生じたというだけで違法とはいえない」と説示している。しかし、適法な競争行為により収益権能が奪われているのかどうかが問題であるのに自由競争による経済的価値の下落だから違法とはいえないというのは、問いに対するに問いをもつて答えるにひとしく、何ら被上告人の行為の適法性を正当化する理由とはなつていないし、また、被上告人の行為による上告人の「自書告身帳」に対する使用収益権能が奪われたことを当然とする理由となつていない。
五、(一) 上告人の主張はわが国において現在ひろく行なわれている慣行からみても充分な合理性を有するものである。この慣行について説明すれば以下のとおりである。
(二) わが国において一般に博物館や美術館は、著作権により保護されている所蔵品であると否とにかかわらず、歴史学的価値、考古学的価値、美術的あるいは芸術的価値等の文化的価値を有する文化遺産を自ら所有し、ばあいにより他から保管して収蔵している。これらの所蔵品の多くは極めて高価な交換価値を有することが多い。博物館等は、かかる文化遺産を保存し、これを公衆に展示したり研究者の閲覧に供したりすることにより、その公益的役割を果している。
ところが、かかる所蔵品を毀損しないように保存修理し、又随時展示し、かつ、これに必要な建物や人員を維持するには莫大な経費を要するものであり、このため所蔵品の観覧から生じる入場料等の収入と並んで、所蔵品の写真撮影や写真掲載に対する許可から生じる収入を重要な経費調達の手段としている。とりわけ、写真印刷の技術が高度に発展し、出版物の市場が大いに発達した現代においては、現実に博物館への入場者数には限度があるのに比較して、写真撮影等の許可による使用料収入が博物館、美術館の維持上極めて重要な要素となつている。(訴状で述べたとおり、上告人のばあいは、この許可から生じる収入は全経費の五分の一ないし六分の一を占めている。)
(三) このため、上告人のような私立の博物館や美術館はもとより国公立の博物館においてさえも、所蔵品の写真撮影やその写真の出版物等への掲載は個別の許可手続にもとづいてのみ行なわれており、またかかる許可においては使用目的、特に掲載する出版物ないしその発行部数を特定し制限している(甲第七号証ないし甲第三六号証)。
(1) まず甲第七号証は、文化庁次長から各国立博物館長、各国立美術館長に通知した文化庁長官裁定にかかる美術品等の「写真撮影等に関する基準」であるが、1(1)二項には、「美術品のうち寄託品等であるもの……について、事前にそれぞれ当該寄託者等……の書面による同意を得ていない場合」には許可しないものとしていること、又、美術品等の写真の原板の使用許可について同2(1)ウ項は「ほかに美術品等の……所有権者または美術品等の写真の著作権があるものについて、事前にそれぞれ当該著作権者または所有権者の書面による同意を得ていない場合」には許可しないこととしている。また、この2(1)ウ項は美術品等の「写真の原板」の所有権を国が有する場合においても、さらに当該美術品等自体の所有権者が他にあるときは美術品等の所有権者の同意を要することとしている。すなわち、甲第七号証の文化庁長官の裁定は、明らかに、国立の美術館等の所蔵品の写真撮影および国立の美術館等の所蔵する「写真の原板」の使用収益等を支配すべきものとし、所蔵品の所有者がこうした支配権を有するものと考えていることが、上記の規定から明確に窺うことができる。
(2) また、甲第八号証以下甲第三六号証に示されるとおり、国公立、あるいは私立の博物館、美術館が所蔵品の写真撮影やその写真の出版物等への掲載について個別の許可を条件としていることも、国公立の博物館、美術館はもとより私立の美術館等も、上記の文化庁長官の裁定に示されているのと同様の権利を所有者が有するという考え方に立つているとみるのが当然である。
(3) しかも、国公立、私立の美術館による所蔵品の写真等に対するこうした支配は、当然のことながら、美術館等の所蔵品を写真により利用する出版社等の利用者によつて広く受けいれられており、利用者からこうした規制に対し疑問を呈せられていないのも、利用者側として上記のような考え方を受けいれているからである。
(4) 以上のとおり、博物館、美術館等の所蔵品の所有者がその所有権にもとづいて所蔵品の写真撮影および写真の利用を行う行為を支配できることは、国(文化庁)をはじめ広く一般的に認められており、その支配権は法的規範として社会的に認知されているものである。
(四) 第一審判決は上告人が右の事実にもとづき第一審において主張した慣行について、有体物の所有者は、「複製物の製作・頒布に際して第三者から対価を徴することは可能であり、著作権者による複製許諾に類似の現象が生じることは否定できない」としながらも、「前記著作権類似の現象は所有者が所有物を合理的に活用するために所有物を支配・管理していることの反射的効果として行つているに過ぎず、事実上の利益享受に外ならない」と判断している。
しかし、甲第七号証の文化庁長官の裁定にみられるとおり、国立の博物館等が事実上支配管理している寄託物について所有者である寄託者の同意がないかぎり写真撮影や写真原板の使用の許可を与えないこととしていることをみても、国立博物館等がたんなる支配管理の反射的効果、事実上の利益享受としてこうした取扱を採つているとみることは到底できない。むしろ、所有者が写真等の支配権を有することは、社会的に法的規範として認知されているとさえみられるものであり、だからこそ、はじめて、右のように文化庁の裁定がなされ、これにおおむね準じて国公立、私立の博物館、美術館の取扱いが行なわれていると理解されるのである。
(五) したがつて、右の慣行に照らしてみても、上告人の請求は充分な合理性を有するものである。